サッカー元日本代表監督のイビチャ・オシムさんが1日、自宅のあるオーストリア・グラーツで死去した。80歳だった。関係者が明らかにした。
機知に富む「オシム語録」は心に響き、皮肉っぽいユーモアには人としての温かみがある。イビチャ・オシムさんは懐の深い人だった。
「で、わざわざ日本から何を聞きに来たんだい?」
2019年7月、オシムさんが住むオーストリア・グラーツ。初対面の私に「何の用だ」と言いながら、その目はとても優しかったことを覚えている。
オシムさんは1964年東京オリンピックでサッカー・ユーゴスラビア代表FWとして初来日し、日本に好感を持った。そのことは後年、日本で監督を引き受ける縁にもつながった。脳梗塞(こうそく)に倒れ、リハビリを続けていたオシムさんを訪ねたのは2度目の東京五輪を前に「スポーツと平和」について聞きたかったからだ。政治と戦争に、そのサッカー人生を翻弄(ほんろう)されたオシムさんに……。
会いに行った時も体が相当弱っており、妻アシマさんから「丸一日寝ている時もあるから、その時にならないと会えるかどうか分からない」と言われていた。指定されたホテルで昼前から待ち、アシマさんの運転する車が駐車場に現れたのが夕方。オシムさんの姿を見て驚いた。ふくよかだった頰はこけ、白いひげが顔を覆っていた。足腰が弱って一人では車から降りて歩くこともできず、私が肩を貸して支えながらゆっくりと歩を進めた。それでもやはりオシムさんは、ずしりと重かった。
長い沈黙の末、語った「紛争」
「あの五輪での思い出は今も心の中に大きく残っている」。よどみなく語っていたオシムさんの言葉が止まったのは、故郷サラエボも激戦地となったボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のことを聞いた時だった。長い沈黙だった。
「その複雑な気持ちを記述するには、トルストイ(「戦争と平和」の著者)でなければならない」
ため息とともに吐き出されたオシム節に、深い悲しみの色がにじんでいた。
旧ユーゴスラビアからの独立を巡り、イスラム系、セルビア系、クロアチア系の3民族が血で血を洗うような内戦に突入。95年の和平合意までの3年半で十数万人が犠牲になったといわれる。当時、オシムさんはセルビアの首都ベオグラードに滞在しており、アシマさんと長女は武装勢力に包囲されたサラエボに取り残された。「毎日のように知人が亡くなり、爆弾が落ちた。家族にもいつ何かあってもおかしくなかった。狂った時代だった」。妻と再会できたのは2年半後だった。
オシムさんに会う直前、私はサラエボを訪れていた。アシマさんたちが内戦時に暮らしていたというアパートには銃弾の跡があった。それは、オシムさんが監督を務めたチームのスタジアムにも、多くの人が今、暮らしているアパートにも。一方で、報道はされないが民族の壁を超えて助け合い、友情を育んだ事例も数多くあったことも知った。
最後のユーゴスラビア代表監督となったオシムさんは、分断されていく祖国を反映するかのように崩壊するチームの様子も目の当たりにした。それでも「スポーツで築いた本当の友情は戦争があってもなくならなかった」と言う。自らをコスモポリタン(国際人)と語り、「出身地や出自にこだわり、差別することは理解できない」と多文化共生社会の重要性も説いてくれた。サラエボに行って感じたことを告げると、うれしそうに笑って言ってくれた。「次はサラエボで会おう」と。
自身の闘病、サッカーに例え
インタビューにはアシマさんがずっと付き添った。夫のポケットチーフがずれればすぐに手を伸ばして直し、髪の乱れに気づけば整える。取材後、お気に入りのイタリアンレストランで食卓を囲ませてもらった。「あまり酒は飲ませてはいけないの」と言っていたアシマさんは、夫が飲んでいた白ワインのグラスが空くと、そっと水を注いで私にウインクをした。オシムさんも黙ってそれを飲んでいた。
「病気との闘いは1―1の引き分け。自分が点を取れば、病気も点を取る状態だ。口ではいろいろ言えるが、つえをついたコーチでは駄目だね」。自身の闘病をサッカーに例えて語っていたオシムさん。試合終了の時が来るまで、懸命に走り続けたのだと思う。
新型コロナウイルスのまん延で、東京五輪は1年延期された。「不要不急」という言葉はスポーツ界にも向けられた。ヘイトクライムや差別が多発し、そしてロシアによるウクライナ侵攻により、分断が進んだ世界を見て何を思っていたのだろうか。
「そんなことも分からないのか」と笑われるかもしれない。でも、オシムさんの言葉を聞いてみたかった。【大島祥平】
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