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Saturday, May 9, 2020

第9話 道と量子 ── バタフライ・ドクトリン 第1章 FUKA-SIGI【不可思議】 - Forbes JAPAN

ファンド・マネージャーという異色の経歴を持つ作家・波多野聖が書き下ろす、壮大な歴史経済サスペンス小説『バタフライ・ドクトリン』。現在、本誌で連載中の作品を、期間限定でWebでもお届けする。

前回までのあらすじ

2021年8月、世界の主要証券取引所に、スーパーコンピューター『不可思議』が導入される。次の月、日本国債が暴落、それに端を発する金融恐慌が世界を襲った。その開発、運営の裏側では稀代の女犯罪者、運天亜沙美が暗躍していた。

世論の動揺を抑えるために金融庁、マスコミのスケープゴートにされた元ヘッジファンド代表、辰野怜は、すべてを失った失意の中で、母の昔の夫で異形の男、「ヤブさん」に出会った。その元で、古代中国で蝶になり、さらに戦場で闘う弓の名手「荘周」とシンクロする夢を見る。

目覚めた怜が母の病院を訪れるとその姿はなく、「あなたも蝶の夢を見ますか」という謎の手紙が残されていた。怜は再会した元部下、松岡孝に連れられ『善界の道』の本拠地へ向かう。教主の明神真の元に通されるが、その隣にいたのはなんと「ヤブさん」だった。

一方、量子コンピューター『渾沌』のインストールに失敗したと思い込む理科院の山梨由紀子はその理由を探るため、『不可思議』の元へ向かう。

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第9話 道と量子


辰野怜(たつの れい)は驚くしかなかった。

「ヤブさん?! どうしてここに?」

かつての部下に連れられ、やってきた宗教団体『善界の道』の総本山、宇須(うず)。教主のに対面した時、怜の母、土岐子(ときこ)の最初の夫であるヤブさんがいたのだ。ヤブさんは横浜の屋敷にいる時と同じように、下膨れの大きな顔をニコニコさせていた。

「はてさてどうして私はここにいるのかな? 真(まこと)さん?」

岬の突端に建つガラス張りの茶室。ヤブさんは惚けたように明神(みょうじん)にそう訊ねてから織部茶碗の茶を旨そうに飲んだ。

明神は次の瀬戸黒の茶碗に茶杓で釜の湯を注いでいるところだった。そして、茶筅(ちゃせん)で茶を点てると怜の前に置いた。怜はその茶を頂戴した。怜には茶のたしなみがある。外国人との付き合いの多い怜は日本文化の代表である茶の湯を説明できるよう知識と作法を身に付けている。明神の点てた薄茶は旨かった。

暫く沈黙が流れた。ヤブさんは相変わらずニコニコとしている。そのヤブさんの存在は全ての緊張を解いていく。何もかもあるがままに受け入れられるように感じ、怜にとっては驚きだらけの今のこの状況も快い。

「物と春をなす人なんですよ」

明神がヤブさんを見ながら怜にそう言った。

「物と春をなす?」

怜が訊ねると明神は頷いた。

「自分と接する事物や人間、そして動物。それらと春をなす。つまりどんな存在とでも春のような関係を創り出してしまうんです」

怜には明神の言葉が良く分かった。自分がヤブさんと横浜で過ごした時間がまさに春のようだったからだ。

だが明神がヤブさんに次に投げかけた言葉に怜は驚愕した。

「そうですよね? 父さん」
「?!」

怜は言葉を失った。その怜に明神は言った。

「藪平(やぶへい)の息子、真です。母はあなたと同じ土岐子……つまり私はあなたの種違いの兄ということになります。嬉しいです。こうしてあなたに会えて……」

なんとも明るい笑顔でそう言うのだった。

「……」

怜は驚愕で沈黙したままだった。

「2人ともいい男です」

ヤブさんがそう言ってニコニコしている。

「兄……」

そう呟く怜に明神は頷いた。

「あなたのことはずっと前から知っていました。凄い弟がいるものだと感心していたんです。でも大変でしたね」

怜は何も言わず明神をジッと見詰めた。

(自分の兄……この男が)

その顔には確かに母、土岐子の面影がある。つまりそれは自分と同じということだ。怜は不思議な感覚の中で呟くように言った。

「驚きました……」

そして、『善界の道』の教主としての明神という存在と自分との関係の謎は深まるように思えた。怜は訊ねた。

「明神さん。まずお聞きしたい。どうして私をここに呼ばれたのですか? そして松岡君から聞いたあなたの伝言……あのことを教えて頂きたい」

(あなたも蝶の夢をみるか……)

明神は頷いた。

「そうですね。それも含めてあなたには色々とお話しなければいけません。『善界の道』とは何か、そして、私が何故教主なのか……」

ヤブさんは何も言わずただニコニコしているだけだった。明神はそのヤブさんを見ながら言った。

「父はいい。こんな人が世界の全ての国の指導者であれば……地球は素晴らしいものになるのにといつも思っています」

怜には明神が何を言いたいのか分からない。そして次の明神の言葉に怜は目を剥いた。

「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない……」

怜は明神を見詰めながら呟いた。

「憲法9条……」

明神はゆっくりと頷いた。

「そう。世界的に有名な日本国憲法第9条……それが『善界の道』を創ったのです」

怜は混乱するしかない。宗教団体の教主としての突然の兄の登場、そしてその兄のする話が全く見えない。明神はただ困惑する表情の怜に言った。

「百聞は一見に如かず。今から『善界の道』とは何か……それをお見せします」

明神は畳に切ってある炉の縁に手を置いた。

「?!」

怜は驚いた。身体がグンと浮き上がり、直下型地震かと思ったからだ。

「?」

周りが暗くなっていく。

「こ、これは……」

ガラス張りの茶室が地下に沈んでいく。それはエレベーターになっていた。炉縁に仕組まれているLED照明が点灯した。ガラスの天井を見上げると降下に従って次々と扉が閉まり何重にも閉鎖されていくのが分かった。

「……」

茶室はそのまま暗い穴の中を加速して降下し気圧の変化から怜は耳が痛くなった。

「どこまで深く降りるんだ……」

緊張の面持ちの怜に明神はうっすらと微笑みヤブさんは相変わらずニコニコしている。

「!」

停まった。次の瞬間、その場所に明かりがついた。そこは長い通路になっていた。3人は茶室を出て通路を歩いた。

「一体どの位の深さなんだ……」

ただただ驚きで茫然とするしかない怜の耳にヤブさんの呑気な声が響いた。

「真さん。腹が減った」

明神はヤブさんに笑いながら言った。

「じゃあ、父さんは先に食事をしてて下さい」

そうしてヤブさんは通路の途中にある別のエレベーターに乗り込んだ。

「また後で」

呆気に取られる怜を残してヤブさんはニコニコしながら行ってしまった。

「……」

怜にとって全てが謎と混乱だった。だが、この次に目にしたものはそれまでとは桁違いの驚きと衝撃を怜に与えた。通路の行き止まりになるところで明神は言った。

「これが『善界の道』の正体です」

そう言って壁に埋め込まれているディスプレーに手を置いた。“認証完了”と表示され重く大きな扉が音を立てながら開いた。

「こ、これは……」

その光景が現実とは怜にはとても思えなかった。明神は言った。

「ここは先ほどの岬からは地下200メートル下、海面下150メートルに位置します。世界唯一の海底潜水艦基地です」

怜の眼下には巨大な潜水艦が2隻並んで停泊していた。

「米国海軍最大のオハイオ級原子力潜水艦より大きい全長180メートル、排水量2万トンの戦略核ミサイル原子力潜水艦です。これを我々は4隻保有しています。2隻は今、オン・ステージで日本海と太平洋のどこかにいます」

怜は言葉が出ない。多くの作業員がメンテナンスをしている様子が窺える。それが目の前にある光景が現実であるという証だった。

「せ……戦略核ミサイル原子力潜水艦……」

明神は頷いた。

「潜水艦発射弾道核ミサイルを30基搭載しています。1隻で主要先進国数国に壊滅的打撃を与えることが出来ます」

怜は信じられない。茫然とその光景に立ち尽くしていた。
明神は言った。

「太平洋戦争の敗戦で日本はアメリカの占領下に置かれアメリカは日本を恒久的支配下に置くための様々な措置を取りました。その1つが憲法第9条でした。それにより日本は軍備を持つことが出来なくなった。しかし、その後の世界情勢の変化でアメリカは日本に再軍備をさせなくてはならなくなった。そうして憲法の制約下ぎりぎりで造られたのが自衛隊です。しかし朝鮮戦争勃発で東アジアでの大規模戦争の可能性からそれでは済まなくなった。憲法9条の制約を超えた軍備が必要になったのです」

怜はそこでようやく冷静になった。

「これは米軍のものなんですか?」

明神は首を振った。

「純粋に日本のものです。戦後、海外にいた日本人たちの莫大な資金と技術の提供を受けて創設されました」

怜はそこであっと思った。

「だがその存在は隠蔽されなくてはならない。その隠れ蓑に宗教団体を使った?」

明神は頷いた。

「日本国憲法第20条……信教の自由は何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も国から特権を受け……皮肉にもそれがこの恐ろしい存在の育成に最適だったのです」

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May 09, 2020 at 06:00PM
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